平常運行、あるいは満員の箱

 結局のところ、彼は自ら定めた期限をとっくの昔に超過しており、それに対して自分以外に誰に向けたでもない罪悪感に苛まれていた。ちなみに期限といっても自分で勝手に決めたゆるいルールのようなものであり、特に誰かにそのことを話したわけではない。したがって彼はなんとなく決めていたことを自分で果たすことができなかっただけである。これに対して誰かが彼を責めるようなことはまず無い。

 しかし、彼は何年も前に定めたそれを、自分はおそらく何らかの形で果たすであろうと思っていた。そのためにはある種の不幸が彼に襲いかかる必要があったと考えていたのだが、幸であることが不幸だったのか、年月を経た今となっては彼は当時の絶望感をはねのけて幸せになっていた。物語としては理想的な展開である。だというのに、今になって彼は自分が幸せになったことがいわゆる台本と違うことに悩んだ。こんなことを誰かに打ち明けても理解されることはないだろう。「予想に反して自分は幸せになってしまった」などと言っても鼻で笑われるか自慢に聞こえて疎まれるだけだ。少なくとも彼はそう思った。

 ここにきて彼は客観的には幸せを掴んだ自分が、実はこれまでの人生の中で一番の不幸に陥っていると感じてしまった。あの頃を象徴する狭く薄暗い部屋はもう彼の空間ではないし、今の彼にとって昼間は自由気ままに仕事を行う時間で、深夜は妻と娘に挟まれながら眠りにつく時間である。夜だけが活動時間で、昼間は目を閉じ耳を塞いでやり過ごす時間だと思っていたあの頃の彼はもういない。人との違いに苦しみ、己に対する嫌悪感に不思議な救いを得る異常な人間などもう存在しないのだ。不幸でないからこそ不幸、そんな矛盾した苦しみに悶える。意味がわからないと彼は思ったし、同時にこんなことで苦しむなんて自分はどうかしているとも思った。

 不可解な己に対する苦しみを彼は久しぶりに味わった。それはフラッシュバックのように現れ、彼を引きずり込んだ。充実からは程遠いこの行き場のない感情に、どうしようもない不安を抱えながらも依存している。その感覚。思い出すべきではなかったもの。普通ではないもの。普通になるには捨て去るべきもの。

 ああ。帰ってきてしまった。

 長い夢から醒めたような気持ちだった。彼はもうどうすればいいかを思い出していたし、それを実行する覚悟もできていた。

 彼の目の前には重い扉を開けて手に入れた幸せが溢れていた。それは傍から見たら紛れもなく幸福の象徴だったし、普通の人間がいずれはと憧れるものだった。しかし、もはやそれらは彼にとっては枷でしかなくなっていた。必要最低限の荷物を持つと彼は家を出ることにした。支度を整え玄関に向かう前に、彼は愛していた妻と子供に笑顔で出かけることを伝えた。二人は帰りがいつになるかを尋ね、それから微笑みとともに手を振る。笑うのにはエネルギーが必要だ。そんなことを考えつつ彼は庭に止めてある車までたどり着くと、ぼんやりとした目的地を決めて走り出した。

 これより先はもう特筆すべきことはない。彼はもういない。ただそれだけである。

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