親切が思わぬ方向に人を害することがある。
そういえば彼はピーマンが苦手だったということを料理を取り分ける前に思い出したが故に、私はあえてピーマンを精密な作業を持って取り除いてあげたのである。しかし「もう好き嫌いはしないって決めたからわざわざ分けないでよ。迷惑」と言われてしまったのだから大変だ。良かれと思ってした計らいでかえって逆効果になったので、あわよくばお礼を期待していたことも相まって精神的なダメージは相当なものだった。私はそれ以来、ピーマンを見ると吐き気を催すようになってしまった。かつては何でも食わず嫌いせずにもりもり食べて『食いしん坊アイちゃん』の名を欲しいままにしていたというのに。
それからもすれ違いがミルフィーユのように重なっていった結果、彼とは一年足らずで別れることになった。私もそろそろ結婚をしたいなぁと思いながらの交際だったので、もうちょっと忍耐強く付き合ったほうが良かったのかもしれないが、こうなってしまった後ではもう遅い。水に流すしかない。
と、個人的に気持ちを捨て去りたいところだが、なにせ結婚も視野に入れていたのだ。周りにも彼とのことは話していたので、私が忘れようとしても周囲が思い出してはみぞおちにえぐりこんできた。母親に至っては説教までしてきた。余計なお世話である。こちらの事情など知ったこっちゃなく、順風満帆に仲良くやっているという架空の交際をイメージしているせいでパラレルワールドの私を始末しようとしている気さえするくらいに怒られた。
ピーマンから始まった面倒な日々が私をパンク、つまりは爆発させるのも時間の問題だった。人間、何であっても許容量を超えるとろくなことにはならない。私は今までの貯金だとか思い出だとかを捨て去って、気がつけば山に登っていた。
その山の中腹まで差し掛かったころ、ふと遠くを見ると何やら建物が目に入った。休憩所か、あるいは寺だろうか。距離があるせいで最初ははっきりとしなかったそれは近づくにつれてどうやら一軒家だということがわかった。自分で勝手に入ってきておいてあれだが、こんなところに家を構えて生活できるのだろうか、と思った。
「トマト炒めるべからず」
家の前まで来ると、まるで表札のような出で立ちの立て札にそう書かれていた。『チラシお断り』と違って、家の前に置くにはふさわしくないフレーズだと思った。そもそも書かれていなくても、日常生活を行う上ではまず選択肢に挙がる行動ではないような気がする。
そんな奇妙な立て札に目を奪われたが、それにしても家の中はおろか周囲にも人の気配はない。廃屋だろうか。しかし、空き家と判断できるほどは寂れ具合が無かった。とりあえず恐る恐る声を出して誰かいないか尋ねるも、返事は返ってこない。自分の身なりが野宿するには心もとないこともあり、どうせ誰もいないのならこの家で一晩を過ごそうと決めた。
玄関の立て付けは少し怪しかったが、鍵はかかっていなかったので難なく中に入ることができた。外から見たイメージ通り、中も使用感が残っていて空き家とは思えない。たまたま留守にしているのかもしれない。だとしたら元の住人が帰ってきて見つかったら不法侵入で捕まってしまうだろうか。それはまずいと思ったが、空き家でも不法侵入にはなることを思い出し、もうどうにでもなれと思って居座ることにした。
山の中ということもあって電気やガス、水道が通っているのか心配だったが、どれも完全に使用できる状態だった。やはり人が今も住んでいるようだ。玄関からトイレ、風呂場、リビングと来て台所まである。平屋ではあるが、とりあえず家に求めるものは一通り揃っている。
しかし、台所まで来たあたりで妙な使用感がピークに達したことを感じた。作りかけの料理が放置されていたのだ。見ると洋食にしようとしていたらしく、湯気の立ったお湯が張られた鍋と下ごしらえに使っていただろうまな板が目に入った。まな板には今にも切ろうとしているトマトがあった。
トマト。
ふと、この家の前にあった立て札の文言を思い出した。トマト炒めるべからず。偶然にしては出来すぎている。壁にかけられたフライパン、まな板の奥に置かれていたオリーブオイル。急に湧いてきた好奇心は、私にトマトを炒めさせるには十分な強さだった。
中華料理店に行ったりすると、トマトと卵の炒めものがメニューに載っていることがあるが、そういう料理でもなければトマトを炒めようとは思わない。パスタソースをトマトベースにするとしても、トマトを炒めることはないだろう。こうして人生初のトマト炒めを行っていると、水分が弾けて赤みが熱を感じたかのように変化していくのに魅せられていくのが自分でもわかった。果たしてこれは美味しいのだろうか。味付けは塩コショウだろうか。トマトが炒められていく音と画に感覚が支配されていく。
◯◯◯
日々の面倒事に心をすり潰されていった私は、気がつけば山に登っていた。ここがどんな山なのかとか、そういったことは何も考えずにただ山を登っていた。
やがて中腹に差し掛かった頃、ふと建物が目に入った。歩いていくうちに目の前まで来ると、それは平屋だった。家の前には立て札があり、そこには奇妙な文言が書かれていた。
「トマト炒めるべからず」
誰かが住んでいて、何かがあったせいで書いたのだろうか。しかし、辺りに人の気配はない。だが、ここは空き家には見えない。突然家を飛び出してきたこともあり、野宿するには格好が心もとない。誰もいないのであればこっそり一晩使わせてもらおうかと思った。
鍵はかかっておらず、難なく入ることができた。それにしてもまるで誰かが生活しているかのようだった。水道やガス、電気も通っている。やがて台所まで来ると、そこには作りかけで放置された料理があった。まな板の上に置かれたトマト。
トマト。
妙な既視感を覚えた。そして、気がつけば私はトマトを手に持ち、壁にかけられたフライパンを火にかけようとしていた。